Photo by Nic Redhead
いよいよ1988年からセナ・プロ時代が幕をあけます。
強力なターボエンジン、ホンダRA168Eを搭載した「MP4/4」は他を圧倒し、チームメイト同士の戦いがF1人気を支えることになりました。
今のメルセデス、一強時代と似た雰囲気だったのです。
ただ、セナ、プロストというタイプの違った天才の戦いはメルセデスのチーム内バトルより、もっと先鋭的で魅力のあるものだったことは確かです。
それ故、セナ・プロ時代として歴史に刻まれることになりました。
MP4/4(1988)
Photo by David Merrett
マクラーレンの最大の名車がこのMP4/4です。
16戦中15勝をあげ、ポールポジションも15回と、他のチームは太刀打ち出来ませんでした。
ホンダのターボエンジンRA168Eは何者も寄せ付けないパフォーマンスを発揮したのです。
スタイルはブラバムのデザインを引き継いだ楔形をしていて、ぺったんこなフォルムが印象的です。
主任設計者はゴードン・マーレイで、ブラバムBT55BMWからの設計思想を、このMP4/4で結実させました。
ひっくり返ったら危なそうなロールバーが特徴です。
MP4/5(1989・1990)
Photo by Iwao
MP4/5は自然吸気エンジンRA109Eを搭載したマシンです。
デザインはMP4/4を引き継いでいますが、インダクションポッド(吸気口)があるためか、車高が高く見えます。
ホンダエンジンは自然吸気でも強さを見せつけ、16戦中10勝をあげ、アラン・プロストがチャンピオンを獲得しています。
……
1990年型がMP4/5Bです。
エンジンは改良型のRA100Eを搭載しました。
プロストがフェラーリへ移籍し、ゲルハルト・ベルガーとセナのドライバーラインナップとなっています。
この年、セナが6勝を上げチャンピオンを獲得し、コンストラクターズでも1位となっています。
しかし、プロスト・マンセル、コンビのフェラーリ641とは実力が拮抗していました。
MP4/6(1991・1992)
Photo by Takayuki Suzuki
MP4/6は1991年のマシンで、1992年の開幕から2戦で改良型MP4/6Bが使われました。
MP4/6はV12エンジン、ホンダRA121Eが搭載されています。
甲高いV12サウンドはこの年からになります。
V12エンジンを積んだためか、サイドポンツーンが大きく高くなっているのが特徴です。
1991年のアイルトン・セナは開幕から4連勝を上げ、2年連続のチャンピオンとなっています。
しかし、エイドリアン・ニューウェイが設計したウィリアムズ・ルノーFW14の登場によって、エンジンだけでは勝てない未来が、そこまで来ていたのでした。
まとめ
「MP4/4」「MP4/5」「MP4/6」はマクラーレン・ホンダの存在を確かなものとしました。天才アイルトン・セナもその立役者であると言えます。
これらのマシンはまさにマクラーレン・ホンダの黄金時代を担ったのでした。
この後、ウイリアムズのハイテクマシンによってF1の勢力図は大きく変わることになるのでした。
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コメント
私はこの頃のフェラーリ(640~F93A)が好きですけど、この頃の車体はシンプルかつスマートなので好きですね♪
「バットマンディフューザー」はMP4/5Bでしたっけ? デカールが上手に貼れたためしがないのでプラモデルは買いませんが、「バットマンディフューザー」がしっかりと再現されたミニチュアカーがあったら欲しいです(^^;
koic さん、ありがとうございます。
「バットマンディフューザー」はMP4/5Bですね。
空力的にはデメリットも多かったみたいです。
車高の変化に影響されることがおおかったとか。
マルボロ・カラーはハイノーズになると印象が悪くなりました。
やっぱり、ぺったんこのマシンの方がシャープな印象がつよいです。
MP4シリーズ歴代の中で、代表モデルと言われれば、やはりMP4/4ですよね。
ターボエンジン最後のモデルでもあり、16戦中15勝という成績も記憶に残っています。
それにしても、ドライバー着座ポジションが異様に低いですね!
今のF1よりも低いのではないでしょうか?
ブラバムBT55が、ローラインとかフラットフィッシュなどと呼ばれてましたが、まさにその通りです。
ターボエンジンなので、空気取り入れ口がロールバーには無いので、走行風が完全にリヤウイングに当たるので、効率高そうですね。
今のF1もターボ付きパワーユニットなのに、ロールバーから空気取り入れ口なので、まるで自然吸気エンジンのMP4/5以降のモデルと同じです。
ターボユニットがツインでは無く、シングルなので仕方ないですね。
1988年のセナ氏とプロスト氏のポイント争いですが、
有効ポイント制(16戦中11戦の最大獲得ポイントの合計)なので、総合得点ではセナ氏よりも多く獲得したプロスト氏が、セナ氏に負けてチャンピオン取り逃がしましたね。
1984年のラウダ氏に僅差で取り逃がした様に。
仮にセナ氏とプロスト氏が両方共に、優勝8回ずつ、2位も8回ずつ、ポイント獲得した場合(マクラーレンチームとしては全勝)
有効ポイント得点でも総合得点でも、両者並んでしまってダブルドライバーチャンピオンというのは、あったのでしょうか?
今でも疑問です。
結果的に、セナ氏8勝、プロスト氏7勝、この1勝差が明暗分けました。
中村さん、私にとって歴代最高のドライバーはセナかブロストか、いずれかだと思うのです。
実はセナ寄りなんですが、レース運びなどはプロストが優ってます。
速さのセナ、クレバーなプロストといったところでしょうか?
以後、この二人と比肩するドライバーをあげることが出来ないのは悲しいです。
フェルスタッペンやルクレールが頑張ってくれることを望んでいます。
MP4/5についてですが、これを置き土産にプロスト氏はマクラーレンを去ってフェラーリへ移籍してしまいましたが、
これもGPカーストーリーの記事で、プロスト氏言うところ、MP4/5はMP4/4と比べてマシンのセットアップが難しくて、手を焼いたそうです。
特にギヤボックスが縦置きから横置きに変わってシフト操作フィーリングが変わったとの事。
それに、マシン開発を全て自分に押し付けて、セナ氏はブラジルに帰ってバカンス休暇取っていたと、ぼやいていましたね。
プロスト氏が去った後のマクラーレンは大変だったと思います。
セナ氏とベルガー氏が車の開発セットアップしないといけないので。
私もライブで見ていた当時はプロスト氏のファンだったのですが、いつ公開されたか?セナ氏のドキュメント映画を見て、涙が出てしまい泣いてしまいました。
それから急にセナ氏が気になって、色々記事を読んで好きになってしまいました。
今でもセナ氏とプロスト氏は切っても切れない関係だと信じています。
だから、プロスト氏が引退した後、セナ氏のモチベーションが無くなり、あの悲劇が起こったのではないか?と思えてなりません。他にも原因ありますが、
セナ氏には、プロスト氏の存在が絶対で、無くてはならないものだったのですね。
プロスト氏が自分はセナファンクラブのフランス支部長だ、と公言されています。
セナ氏との思い出は宝物だとも。
まさしく、その見方は正しいですね。
感慨深いです。
今はプロスト、おじいちゃんですが…
セナのおじいちゃん姿が見ることが(想像も)できなくて残念。
一緒に年齢を重ねて欲しかったです。
今でも想像したりするのですが、
セナ氏が生きていたら、F1業界には一切関わっていないでしょうね(プロスト氏のように自身でチーム運営するなど)
では、それ以外では政治家になってブラジル大統領になっているか?これも違うでしょう。
実業家になっているのでは、と思っています。
それもブラジルのためになる事業、ホンダとの縁でブラジルにホンダの自動車工場を誘致して経済が豊かになるような事業。
それ以外で、子供の教育にも取り組む事を。
これしか思いあたらないですね。
そうかもしれませんね。
セナは家族思いですし。
セナと後藤氏との有名な話があります(御存じかも知れないですが)
1987年ロータスホンダで、ホンダターボ経験済みのセナが1988年マクラーレンホンダに移籍して本格的にタイトル獲得に乗り出しました。
セナとホンダスタッフとのコミュニケーションも深くなってきましたが、
セナは後藤氏に大きなリクエストを要求しました。
1988年のレギュレーションで決められた燃料使用搭載量150リットルを更に減らして車重を軽くして
スタートダッシュと加速を有利にしたい提案を出しました。
後藤氏はガス欠のリスクあるので安全マージンを考慮して断固反対しました。
それでもセナは諦めずに食い下がるので後藤氏はテレメトリーを解析してセナのドライビングに合わせてECUをセッティングしました。
実際は燃費の影響が少ない市街地コース(米国デトロイトGP?)で採用されただけですが、
2人の関係を物語るエピソードですね。
対してプロストの方は、車体のセットアップが大事でエンジンには無関心?と言うかトラブルさえ起きなければ後はエンジニアに任せっきりと言う状況でした。
この事が後で問題を引き起こす要因になったと思っています。
後藤氏は決してセナだけ優遇したのでは無くプロストにも公平にエンジンサポートをされていたでしょう。プロフェッショナルですから。
田辺TDもレッドブルのマックスとペレス、アルファタウリのガスリーと角田、全員に公平なサポートされているのは間違いないですね。
確かにマックスのドライバータイトル、レッドブルホンダのコンストラクタータイトル、大変なプレッシャーを抱えているのですから。
中村さん、ありがとうございます。
このあたりの逸話は、ホンダとセナが一体となっていたことを示しています。
いい話です。
マックスがチャンピオンになったら、ホンダとのいろいろなエピソードが伝説になるかもしれませんね。
後藤氏は、ホンダ退社後にロン・デニスからの誘いでマクラーレンに移籍されて、更に1994年にはマラネロからフェラーリにエンジン部門の責任者として迎えられましたですね。
日本人F1ドライバーではフェラーリ入りした者はいませんが、
エンジニアとしては初めてでしたね(後にブリジストンの浜島氏もフェラーリに移籍されましたでしたね)
日本人として誇らしい出来事でした。
後藤氏がフェラーリで開発したV10によってシューマッハが偉大な記録を打ち立てた。
その後フェラーリからザウバーに出向と言う形で、キミ・ライコネンとも関わる事に?
セナ、シューマッハ、ライコネンと各時代のワールドチャンピョンと深いつながりあったのですね。
最後に落ちを1つ、
あのプロストにエンジン(V10)タコメーターの最高回転数のマークを表示して、「ここまで引っ張るように」と指示したのも後藤氏でしたね。
ちゃんちゃん
中村さん、詳しいですね。
さすがです。