Photo by Stuart Seeger
ナイジェル・マンセルはセナの次に好きなドライバーです。
セナが鋭く切れるナイフの様な天才レーサーだとすれば、マンセルは重戦車です。
戦うためには全てのものを押しのける威圧感があります。
どちらかというと直情径行が強く、熱くなると冷静さを失うこともあります。
そのため、他のドライバーとのコンタクトも多く、理解に苦しむ行動もあります。
ただ、マンセルのアタックは何故か憎めない、気持ちの良いものでした。
レースを離れるとスーパー・マリオのような風貌に好感が持てます。
マンセルは、1986年と1987年、今一歩というところでチャンピオンを逃しています。
もう少し運があれば、1992年とあわせ3度のチャンピオンになれたかもしれません。
(1986年は最終戦タイヤバーストでリタイア。1987年は日本GPのプラクティスで出走不能の事故を起こしています。)
直情的なマンセルのエピソード① 1987年:ベルギーでリタイア後セナにつかみかかる
第3戦ベルギーGP(1987.5.17)のことです。
セカンドロウから猛然とダッシュしたセナ(ロータス・ホンダ99T)はトップにたち、マンセル(ウイリアムズ・ホンダFW11B)を従えてレースをリード。
マンセルは森林区間でセナをアウトからパスしようとします。
二人は接触し、セナはその場でリタイアしてしまいます。
マンセルはコースに復帰したものの17周でリタイアを余儀なくされました。
その後、マンセルはロータスのピットへ。
セナの胸ぐらをつかみ、「次はないぞ」と恫喝したのです。
セナは意外にも冷静に対応したようです。
その後セナは、
「彼が何をしようとしていたか理解できない。あんなところで外側からオーバーテイクしようとするなんて。気がついてブレーキを踏んだけど、あんな状況で、出来ることはほとんどない。」
と語っています。
直情的なマンセルのエピソード② 1989年:ポルトガルGP、黒旗失格後のセナへの追突
第13戦ポルトガルGP(1989.9.24)、アイルトン・セナがチャンピオンを獲得するためには絶対に取りこぼし出来ない状況でした。
ポールスタートはセナ。
スタートで見事な出だしを決め、トップを奪ったのはフェラーリのベルガー。
8周目、セナは同じくフェラーリのマンセルにもパスされ3位走行となります。
マンセルは24周目、バックマーカーを利用し、ベルガーをパスしトップへ。
しかし、マンセルのタイヤ交換でアクシデントが起きます。
マンセルはピットを通り過ぎてしまい、慌ててリバースギアでマシンをピットに戻してしまいます。
この、行為はレギュレーション違反。
マンセルには黒旗が振られます。
しかし、マンセルは無視(後にマンセルは見えなかったと言っていますが、無視したとしか思えません)し、2位走行を続けるセナを追い続けます。
49周目、目を疑う出来事が起こります。
マンセルは失格の身であるにもかかわらず、1コーナーでセナに猛然と襲いかかったのです。
セナのマシンはマンセルのマシンと接触。
グラベルへ押し出され、リタイアをきっしたのでした。
このアクシデントはチャンピオンを逃す結果となった要因ともいえる痛恨のアクシデントだったのです。
ほほえましいエピソードもあった。 1991年:マンセル母国初優勝での出来事。
マンセルの母国優勝はキャリアのわりに遅く、1991年第8戦イギリスGP(1991.7.14)のことでした。
1991年はウイリアムズ・ルノーが強く、最後までマクラーレン・ホンダとコンストラクターズポイントを争った年です。
マシンはFW14でした。
マンセルは予選でも好調で、ポールポジションを獲得します。
スタートではセナに先行を許しますが、難なくパスしそのまま、優勝してしまいます。
2位走行していたセナは最終ラップでガス欠。
マシンを止めてしまいます。
優勝を決めた後のウインイングランでマンセルはセナをコース上でひろい、FW14のサイドポンツーンに乗せ、ピットへ戻っています。(セナは静止するマーシャルを蹴飛ばしてました。)
F1マシンに2人乗りするマンセルとセナは深い友情で結ばれているようにも見えたのでした。
Photo by Paul Reynolds
セナ vs マンセル、2つの名勝負
セナとマンセルはF1史上に残る名勝負を繰り広げています。
どちらも既にこのブログで取り上げています。
1986年第2戦スペインGP スローパンクチャーに見舞われたマンセルの必死の追い上げ
1986年第2戦スペインGP(1986.4.13)、アイルトン・セナはロータス・ルノー98T、ナイジェル・マンセルはウイリアムズ・ホンダFW11を駆ってのバトルです。
40周目マンセルはセナをパスしトップにたちます。
しかし、残り10周というところでスローパンクチャーを起こしタイヤ交換することに。
フレッシュタイヤでセナを追い上げ、ゴールラインを通過した際のギャップはわずか0.014秒、95cmの差しかありませんでした。
1992年第6戦モナコGP またしてもタイヤトラブルのマンセルが見せた必死の追走
1992年、圧倒的な速さを誇るウイリアムズ・ルノーFW14Bを駆るマンセルは開幕から5連勝を成し遂げていました。
アイルトン・セナのマシンはマクラーレン・ホンダMP4/7A。性能の差は歴然としていました。
1992年第6戦モナコGP(1992.5.31)、マンセルはポールで発信し盤石のレース運びを見せます。
しかし、残り7周、タイヤの異常を感じたマンセルはピットへ。
タイヤ交換のピット作業によってセナはマンセルの前に出ます。
抜けないモナコでフレッシュタイヤのマンセルを押さえきり、アイルトン・セナはモナコの連続優勝を4に伸ばしたのでした。
セナとマンセル
セナとマンセルのバトルはレース上に限られ、プロストとの関係とは違っていました。
マンセルはレースを離れると人の良い一面も見られ、からっとした性格がセナとの友情を育んでいたようにも見えます。
二人が同一チームになることはありませんでしたので、そういう関係が成立したのかもしれません。
プロストとのバトルは因縁めいたものを感じさせますが、マンセルとのそれはファイター同士の、しのぎを削る争いとして気持ちの良いものでした。
ファイターとしてもドライバーとしても優れたマンセルが、ワールド・チャンピオンを獲得した回数は1度きりです。
そのことが不思議でなりません。
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